【このコラムは、現在日本を除く全世界で話題となっている映画「オッペンハイマー」に基づいて書かれたものです。日本での公開はまだ発表されていませんが、9月説が出ているところです。(編集部)】
By Yuval Boger, Chief Marketing Officer, QuEra Computing
J. ロバート・オッペンハイマーは、物理学の歴史に燦然と輝く人物であり、「原爆の父」と呼ばれています。オッペンハイマーが量子コンピューティングに与えた直接的な影響は明示できないかもしれません。しかし、彼から得た教訓は、現在進行中の量子コンピューティングの進歩に深く関係しています。映画で描かれたオッペンハイマーの人生と仕事は、核物理学の歴史的軌跡に光を当てるだけでなく、量子コンピューティングの進化を理解するための文脈を提供してくれています。
オッペンハイマーの主な研究は核物理学でしたが、量子コンピュータの基礎となる量子力学への貢献は決して軽微なものではありませんでした。1920年代に、ドイツでマックス・ボルンと共同で行った博士課程での研究は、ボルン-オッペンハイマー近似の開発につながっています。この近似式は、量子力学を原子から分子へと拡張することになり、彼の最も引用された論文のひとつになりました。ボーアやハイゼンベルクといった初期の著名人たちとの学術的交流は、科学的発見が盛んだった時代であり、今日の量子コンピューティングの基礎を築いたのです。
ロスアラモスの所長として、オッペンハイマーは優秀な頭脳を持つチームを率い、その多くが後に量子コンピューターに大きく貢献することになります。その中には、現在、量子コンピューティングの先駆者の一人と言われている若き日のリチャード・ファインマンがいました。ジョン・フォン・ノイマンもチームのメンバーで、コンピューティング・アーキテクチャに大きく貢献し、量子系が測定されるとどのように状態が変化するかを説明する「測定問題」に取り組んでいました。オッペンハイマーはイシドール・アイザック・ラビとも共同研究を行い、中性原子コンピューティングに不可欠なラビ周波数は、彼にちなんで名付けられています。
映画では、マンハッタン計画におけるオッペンハイマーのリーダーシップが描かれ、量子力学の実用的な意味が強調されていました。また、量子コンピューティング企業が今日直面している、学術から産業および商業環境への移行という課題にも焦点が当てられています。「限られた資源と、事実上期限のない仕事に慣れていた科学者たちは、今や無限の資源と、厳しい期限の世界に適応しなければならなかった」と、オッペンハイマーの伝記に書かれているように。
原子物理学の直接応用である原子爆弾は、歴史の流れを決定的に変えました。そして、量子コンピュータの実現に相当する 「Q Day」 は、現在の暗号システムを破ることができるその日を意味しています。その日が来た時、理論的には、暗号化されたメッセージが解読され、デジタル通信のセキュリティが崩壊するかもしれないのです。
1945年、最初の原爆の製造は、米ソ間の核軍拡競争の火を付けることになり、その後、他の国々も追随してきました。今日、我々は主要国が量子技術に数十億ドルを投資するという、同様の「量子軍拡競争」を目の当たりにしています。最初に量子の優位性(4,000個のエラー訂正された高品質の論理量子ビットのようなもの)を獲得した国が、実質的な戦略的優位性を得ることになるでしょう。多くの専門家が「マンハッタン計画」のような量子技術への投資を提唱しています。元 NSA長官のマイク・ロジャーズ氏は、最近次のように述べています。
「私たちは重大な岐路に立っている。スプートニク・モーメント に相当する量子現象を待つのはやめよう。これほどのパワーを持つ新技術が登場することはめったにないのだから」
核軍拡競争は相互確証破壊のコンセプトに基づいていましたが、量子コンピューティングではまったく別の景色が広がっています。量子コンピュータの出現によって、安全な通信が終わりをむかえるわけではありません。実際に、古典的な暗号技術を使用して、潜在的な量子の脅威に対抗することもできます。例えば、格子ベースの暗号システムは、量子攻撃に対して堅固な防御を提供します。これらのシステムは、既存のプロトコルやソフトウェアへの組み込みは難しくありません。量子安全セキュリティ対策として一般的な選択肢となっているのです。核と量子。両者にたいして重要な違いが見えてきました。前者が真の防衛策を持たない覇権競争であったのに対し、後者はバランスの取れた競争であり、量子コンピューティングの進歩は、量子耐性暗号の飛躍的な進歩に繋がっています。
オッペンハイマーの個人的、そして政治的な苦闘は、量子コンピューター界にとっても貴重な教訓となるでしょう。核開発の推進に反対した彼の主張には、科学の進歩が倫理・道徳的な意味合いを持つことに対する深い責任感が反映されています。この視点は、量子コンピュータがハッキングに悪用される可能性や、量子の覇権が持つ意味など、有益そして有害な応用両方の可能性を持つ今日の量子コンピューティングにも関連しています。オッペンハイマーの話は、量子コンピュータの倫理的、社会的意味合いを慎重に検討する必要性を問いかけていると言えるでしょう。
この映画では、核開発に対する姿勢に憤慨した人々によって画策された、彼の政治的失脚が描かれており、科学、政治、世論の間の複雑な相互作用が強調されていました。このダイナミズムは量子コンピューティングの分野でも顕著であり、データプライバシー、国家安全保障、技術至上主義がナショナリズムの色彩を帯びています。例えば、特定の量子技術が国家の敵対勢力に拡散するのを制限するための輸出規制が議論されていますが、これは科学の進歩を促進するための、自由な情報の流れとは対照的です。
この映画の中でオッペンハイマーは、原爆実験に初めて成功したトリニティ実験によって、自らが引き起こした "連鎖反応 "の広範囲に及ぶ影響について振り返りました。実験を終え、オッペンハイマーがヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節を引用したのは有名な話です。
「今、私は死となり、世界の破壊者となった」
彼の比喩的な生涯は、量子コンピューティングの発展によって今も続いており、これもまた世界を再定義し、未来を形作る可能性を持っています。
マンハッタン計画から数十年、ロスアラモス国立研究所は量子力学、そして最近では量子コンピューティング研究の拠点であり続けています。今日、ロスアラモスの研究者たちは、量子コンピューティング技術の開発と、その応用の可能性の探求に積極的に取り組んでおり、産業界のリーダーたちと協力して、量子モダリティの研究を行っています。
オッペンハイマーが量子力学について講義をしていたときの逸話が残っています。複雑な説明の最中に彼は立ち止まり、ボードレールの 「Le Voyage」 を引用して次の言葉を残しました。
「夢を見ること以外には何もないんだ」
私たちが量子コンピューティングの進歩を続けその可能性を夢見るとき、オッペンハイマーの話を思い出し、科学の進歩の倫理的、社会的、政治的側面について、そこから得られる教訓を活かす必要性を考えずにはいられません。
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原記事(Quantum Computing Report)
https://quantumcomputingreport.com/
翻訳:Hideki Hayashi
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